青 春
                         
                    会員投稿:浅井 公子

サムエル ウルマン(作山宗久訳)

青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
時には、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情は失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥にある。

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、幼児のような未知への探究心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
悲歎の氷にとざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと人は青春にして已む。

(『青春とは、心の若さである』角川文庫より)

サムエル ウルマン (1840〜1924)
ドイツ生まれのユダヤ人。1851年に両親と共にアメリカに
移住、南北戦争従軍などを経て、アラバマ州バーミンガハム
で金物屋を開業。市の教育委員、イスラエル寺院の会長名
などを務めながら、青少年の教育にあたる。













平成20年11月15日

執筆者:木村 勝紀

       東京名物・第49回神田古本祭り

今年2008年の「神田古本祭り」は、10月27日(月)から11月3日(月)まで行われました。世界一の古本屋街、神田神保町で毎年開催されるこの古本祭りは、回を重ねて今年で第49回目を迎えたそうです。東京名物といわれる程のこの行事は、毎年本好きの好事家にとっては待ちに待ったお祭りです。靖国通りを中心に開催される「青空掘り出し市」や東京古書会館で催される「特選古書即売展」などの総称で、神保町古書店街最大のイベントとなっています。もちろん神保町界隈の159店に及ぶ古書店も満を持してお客さんを待っています。

古書店街を訪れるということは、お祭りでなくても値段の安さと、思わぬ稀少本の掘り出し物との出会いなど楽しさいっぱいです。ましてや古本祭りとなれば、大勢のお客さんと、歩道いっぱいに並ぶ露店と、「いらっしゃい、いらっしゃい」とお客さんに声をかける売り子の呼び声など盛り上がる雰囲気に呑まれて、ついついわくわくしてしまいます。

本の値段は、関心の持ち方次第で価値観に個人差がありますから、どんぴしゃり自分の好みのものが安値で見つかったりすると思わずにんまりすることになります。

私は毎年このお祭りを楽しみにしているのですが、今年は特に「江戸」に関する文献を漁るという目的をもって出かけました。11月3日(月)の最終日は、たまたま近くの専修大学の校舎で趣味の分野の検定試験がありましたので、受験に合わせて寄ったわけです。

好天と文化の日という祝日とが重なって、ひときわ賑わっていました。早速物色にかかりました。江戸時代に書かれた文献風の喜田川守貞著「守貞謾稿」や松浦静山著の「甲子夜話」など自筆本の翻刻版は既に持っていましたので、今回も同様の古書を探しました。幸い、寺門静軒著の「江戸繁昌記」とシーボルト著の「江戸参府紀行」の翻刻版2冊を求めることができました。また、尾張屋版「江戸切絵図」と歌川広重の「江戸名所百景」の翻刻版も手に入れることができました。

帰りには三省堂近くで、周恩来ゆかりの中華料理店「漢陽楼」で食事をしてから意気揚々と引き上げてまいりました。神田の古本屋街にはおなじみの方が多いと思いますが、何度行っても楽しいですね。写真は、靖国通りの青空市の様子を専大通り交差点から駿河台下に向かって写したものです。お祭りの雰囲気を一端なりとも感じ取って頂ければ幸甚に存じます。
                              以上


      
私の体験談(学問のすすめ)

                                                平成21年1月6日
                                                会員投稿:山田 文紀
 あけましておめでとうございます。私は放送大学「発達と教育」専攻へ平成1010月に入学し、平成15年の3に卒業した山田文紀と申します。拙い体験記を書いてみたいと思います。
「放送大学に出会うまで」
 今から30数年前、私は何をやっても長続きしないニートの走りでありました。しかしいつまでもそういう状況が許されるわけもなく、追いつめられた挙げ句に兄の店で板前修業を始めます。それを皮切りに水産加工場、ホテルなどで包丁の使い方を憶え、数年後には水産物卸の商売を始め、さらに数年後に現在の旅館を経営するに至ります。
 商売を始めた頃は借金も膨大で生活することだけに全生命をかけるという感じでした。
 やがて商売も安定しだすと、今度はこのままでずっと行ってしまっていいんだろうかという疑問がわいてきます。そこで町おこしや青少年指導員といったさまざまな社会活動にも参加します。しかし、
40歳になった頃に、それまでの生き方に疑問を持ち始め、自分にはもっと別の道があったのではと思うようになります。それまでの価値観に揺らぎが生じたのです。
 ユングのいう中年期の危機だったのかもしれませんね。

 そして自分が今までできなかったこと、やってこなかったことに関心が向きます。そんなときテレビで放送大学の存在を知り、入学をすることになります。
 小学生の頃から立たされ坊主で勉強に関して楽しかった思い出など一つもなかった私でしたが、初めて参加した授業での感動は今でも忘れません。自分の稼いだお金で受ける授業がこれほど楽しいとは。
 しかし、勉強からかなり離れていたので、英語や古文などは大変苦労しました。そんなときは杉田玄白らが辞書もなくオランダ語の解体新書を翻訳するエピソードを思い出しました。それはまるで羅針盤もなく小さなボートで太平洋を横断するようなものと比喩されてます。それに比べれば、英語の勉強なんてと思うようにしました。それでも古文の授業にはついて行けず、一緒に授業を受けていた10歳以上年上の方達がそんな私を見かねて懇切丁寧に指導して下さったこともあります。すばらしい人たちばかりでした。
 「臨床心理士を目指す」
 ある日、心理学の授業で臨床心理士という資格があることを知ります。かねてより、専門性を身につけて社会貢献したいと思っていた私は強くその資格に惹かれます。しかし、資格取得には受験資格の得られる指定校の大学院に行かねばならす、しかも指定校はどこも大変な倍率であるということを聞かされます。しかしだからといって諦めればそれで終わり、諦めず挑戦し続ければ夢は必ず叶うと受験を決意します。そして、放送大学ではまず認定心理士取得のための心理学の単位を取りました。そして何とか卒業し、1年間の受験勉強で院に挑戦する計画を立てます。
 指定校受験は一般入試と社会人入試があります。社会人入試には英語が受験科目でないところもあり英語から離れている社会人には有利と思えるかもしれませんが、大学院の授業では英語力は必須になりますので、院に入ってから英語で苦しむよりも受験勉強から英語力を身につけたいとの思いで私は一般受験を選択しました。
 放送大学で英語を16単位取っていたのですが、院受験レベルにはほど遠い状態でした。本番の試験では英語の長文が出題されるのですが、過去問をしても辞書を使って一問解くのに、10時間もかかってしまい、これで1年後にどうやって受験を迎えられるかと思うと気の遠くなる思いをしたのを今でも憶えております。しかしどれほど遠く険しい道のりであっても、11歩進めば必ず到達できるとの思いで、挑戦しますが、1年目の冬受験は全滅で半年後の秋受験でようやく合格を勝ち取ることができました。そして自宅から片道3時間半かけての通学が始まります。
 大学院では私の半分ぐらいの歳の人たちと切磋琢磨し、楽しく勉強することとなります。皆さん、国立大学や1流大学出身者が多く、この中で本当にやっていけるか不安もありましたが、とにかくやれるだけやろうとの思いで、電車の中はもちろん、乗り換えのホームなどでも待ち時間は必ず、資料や論文を読みました。それは今でも習慣になっております。最も苦労したのはやはり修士論文で、心理学では独自の研究法や統計処理があり、困難を極めましたが、院仲間に助けてもらいながら何とか書き上げることができました。指導教授の温情でその修士論文はその年の大学院紀要に載せてもらいました。
 そしてその年の臨床試験に1回の受験で合格することができました。
 振り返ると、大学からの6年半の学生生活はあっという間で、わくわくどきどきの胸躍る貴重な体験となりました。学問した御陰で、ものごとに対する認知が変わったのか、たまにあった夫婦げんかもなくなり、子どもも自ら進んで勉強するようになっています。
 現在、私は平日は都内の某精神科クリニックと保健センターで心理職として働き、週末は旅館の板前として働いております。
 臨床心理士としての経験はまだ浅いのですが、しかしそれまでの経験を臨床に活かすことができ、私よりも臨床経験豊富な若い心理士から、大変だからと患者を回されるようにもなっております。せっかく縁した患者さんには、私に当たったことがラッキーであったとなるようにとの思いで全力で治療に当たっております。
 思えば放送大学で学ばせて頂いてから価値観や生活まで変化し、以前のような迷いもなく、まっすぐにここまで来られた気がします。
 放送大学ではもう歳だからとか、今さらもう遅いといった言葉は聞こえません。それこそ、いつからだって、どこででも、どなただって学ぶことができます。80歳を超えて尚、自己実現をめざして入学してくる方も多く見られます。そんな方から刺激を受けてここまでやってくることができました。これからも放送大学出身者ということを誇りにし、頑張っていきたいと思います。
               以上。


  
          放送大学神奈川同窓会ホームページ
           開設迄の経緯と裏話

                                          会員投稿:寺村 紀美夫

 放送大学神奈川同窓会ホームページ(以下「HP」)は前会長:五十嵐氏の時代から懸案となていたと聞いている。そして、第126回役員会(H19/4/8)にて19年度中に懸案のHPを開設させていくことが決まり、更に第18回通常総会(H19年6月)に会員にHP開設することを発表した後、本格的にHP開設の準備を行うことになった。  
 T.経緯
1H19/4/8 第126回役員会にてH19年度中にHPを開設する事がき決まりの スケジュ ール等の「叩き台」を寺村が次回役員会に提案することとなる。

2.H19/5/19 第127回役員会にHPの開設迄の「叩き台」を提案する。

3.H19/6/3 第18回通常総会にて19年度中にHPを開設することを会員に発表し 賛同を 得る。

4.H19/6/30 第128回役員会にて「叩き台」を審議す。その結果以下を決定す。 
 @開設担当者:岡本、吉原、寺村 
 Aスケジュール:テスト版開設:H19年9月〜11月末
         本番開設:H20年1月初め〜 
 B各ページの内容(コンテンツ)役割担当:各役員 等を決定す4.H19/8/11 

5.第129回役員会にて
 @アドレス登録を発表 
 Aテスト版の開設を9月中旬と発表 
 Bその他コンテンツの要請す 等を諮問し決定する5.H19/8/14 テスト版を役員各位に発表し、次の各日に更新する(9/24、10/12、 11/ 7、12/10)。6.H20/1/1 本番を開設する。以降次の各日更新する(2/5、2/11、2/18)。    
 U.開設迄の裏話
 第126回の役員会にてHPを開設することが決定したが、誰がそれを推進するかが問題であった。役員の中で誰もがHP開設の経験が無く、私(寺村)のみがHP開設のソフト(旧式の)を持っていたためと、かなり以前遊び程度のHPを持っていたためお鉢がまわってきた。しかし私も本格的なHP開設は全くの素人であり、どのように開設していくのかは不明であった。しかし開設担当と決まったのでやむなくHP開設のためのマニアル本を買い求めく、首っ引きで読み漁りソフトも最新のものを買い求めて,ようやく約束の期日(H19/9/14)にテスト版の開設に漕ぎ着けた。    しかし、テスト版発表するまで苦心惨憺であった、どうしてこんなものを引き受けたのだろうと何回も後悔の心境であった。今それを省みても冷や汗ものである。この時期は放送大学の単位認定試験のため8月初旬まではHPに手を付けられないので、スタートは8月中旬からでその後,酷暑の、中約1ヵ月間でテスト版を作り上げることとなったのである。
 この間は多少涼しくなった夕方から真夜中まで略毎夜マニアルを見ながら1ページ毎に作っていくのですが、巧くいかず失敗し何回もの繰り返しの作成となってしまうのである。9月になってようやくテスト版の見通しが出来てほっとしたものである。 
 テスト版発表前後、役員各位より各種のコンテンツ(各ページに貼り付ける内容)を頂き本番に向かって各ページの作成を行った、本番に対しては時間もタップリあり、且つジックリと各ページ作成もできたので略満足のHPとなったのではないかと思っている。   
 V.開設以降の情況
 1.四季による背景の変更 
 HP管理者は、観ていただく読者に対しマンネリにならぬように気を配らねばなりませんが、しかし、素人の管理者ではそんな高度な技術はないためマンネリ化防止の一つとして、季節毎に背景を変更することにしています。
 今までの冬季は「雪ダルマ」、春季は「桜吹雪」、梅雨季(6月〜7月は「雨だれ」、夏季は「夏空」としています。しかし、この背景の変更は大変な 作業なのです、ページ毎に綿密作業となるからです。最近はページ数が増 加しているため数日間の作業となってしまいます。
 2.画像(写真)掲載の情況
  HPは写真等の画像が綺麗で、且つ新鮮な情報を提供することが生命と言われています。また役員会にて画像の掲載を主力にするように要求されています。そのため、管理者としてはHPへの写真掲載は神経を使っています。    
 通常、HPへ掲載する写真画像はデジタルカメラで撮影したものを一枚一枚チェックし、少なくとも画像ソフトにて「縮小の処理」や「自動補正処理」、「切り抜き処理」等を行います。
 そのために各行事やイベントの写真を処理してHPに掲載することは大変細かく時間の掛かる作業となり、神経を使っています。また、写真を写真集として掲載するととんでもなくページ数が多くなってしまうため、多数の写真をぺージ数増加の必要のないスライドショーにしています。
 更に現在研究中ですが、動画写真をお見せできるようにしたいと思っています。  
以下に@スライドショー、Aデジタルカメラ動画についての現在情況をお話しします。  
 @スライドショーについてHPには各イベント等のページに写真の「スライドショー」があり ます。この「スライドショー」はそのイベントにて撮影した写真(20枚〜100枚程度)の中から良いものを選択し、更に一枚毎に各種処理(切り抜き、縮小、カラー補正、コントラスト処理等)をして見易く綺麗に処理を行い、また一枚毎にHPに掲載するものです。
その結果をHPにてご覧下さい。  
 Aデジタルカメラ動画についてHPに動画を載せることを、当初より考えていました。昨年  のテスト期間中にビデオにて試みましたがどうしても旨く行かず失敗し、諦めていました。
 そのことに悶々しているうちに今年6月のNHK趣味悠々番組の「インターネット活用術入門」にてデジタルカメラにて動画撮影したものをインターネットで公開しHPに貼り付けることによって動画を観ることが分かりました。そこで早速6月のイベン「鎌倉歴史散策」に参加して、デジタルカメラにて数秒間の動画を撮影してHPにテスト的に記載してみました。

今後更に研究を深めて各イベントの動画写真を撮影し、皆様に楽しんでいただけるようにしていきたいと存じます。 
 会員の皆様、このスライドショーや動画をご覧になったでしょうか? ご覧になっていない方は是非ご覧下さり、ご感想を波濤ネットにお願いします。    





 紀行文投稿作品



   益子焼の陶器市紀行

                    
会員投稿:木村 勝紀  


 平成19年11月1日(日)、益子焼で知られる栃木県益子町の陶器市に行ってまいりました。益子焼といえば陶芸家「濱田庄司」で全国的に名を知られていますが、毎年春と秋の2回陶器市が開かれます。
 益子焼は江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まると言われます。優れた陶土を産出し、大東京という市場に近いこともあり、鉢、水がめ、土瓶などの日用の道具の産地として発展しました。1924年、濱田庄司氏がこの地に移住し、「用の美」に着目した柳宗悦らとともに民芸運動を進めるかたわら、地元の工人たちに大きな影響を与え、益子焼は「芸術品」としての側面も持つようになり、以来全国的な陶器の町になったと言われます。

 現在、窯元は約380、陶器店は50店。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家が多く、多種多様の作品が産出されています。陶器市は年2回行われ、春秋合わせて50万人の人出があるといわれます。この陶器市は1966年(昭和41年)から始まり、春のゴールデンウィークと秋の文化の日前後に行われており、今年2007年(平成19年)の秋は11月1日から5日まで開催されました。 開催場所の、益子町内各所には約500ヶ所のテントが並び、常設の陶器店とともに伝統的な益子焼から、カップや皿などの日用品、高価な美術品などが販売されます。テントでは新進作家や窯元の職人さん達と直接会話を交わしながら品定めをします。常設店の並ぶ界隈は、清潔で整然とした町並みを形成し、如何にも高級品を並べるにふさわしい立派な構えの店が並びます。この市では焼物だけでなく地元の農産物や特産品などの販売も行われ買い物の醍醐味を倍加させてくれます。
 私は「徳利」と「ぐい飲み」を買いました。あまりのお店の数と商品の数に目移りがして決めかねていたところ、場内の吹き溜まりのような端の端の小さなテントが目に入りました。年のころは30歳前後で地味な雰囲気の女の人が店番をしています。如何にも売れない新進陶芸作家の風情で、寒そうに身を縮めて座っていました。自作の作品を売っているのでしょう。 お客さんも寄り付かないし、気の毒に思ってこちらも勇気を出して商品を手にしました。ぽっと顔を赤らめながらやおら立ち上がり、如何ですか? と小さな声で言いました。これは貴女の作品ですか? はい。寒いのにご苦労様ですね。それではこれとこれを下さい。品物の目利きもそこそこに「徳利」と「ぐい飲み」を手にした次第です。その後、この「徳利」と「ぐい飲み」は至って気に入り、今日この頃の寒い日にはお燗をして楽しんでいるところなのです。
 下の写真は、陶器市の広場の真ん中に、でんと据えられた高さ5mはあると思えるタヌキです。愛嬌のある姿に思わずシャッターを切りました。   
                                           以上
      



☆


  



      「波濤」の由来

                     (「波濤」6周年記念特集号より掲載)

                                            作者:須藤 威夫

 「名は体をあらわす」とか。「波濤」を広辞苑でひくと、大波とある。6年ほど前、放送大学神奈川支部で同窓会誌を発行することになった。
 その命名を一般募集したら、5つほどの名前があがった。「カモメ」、「ゆり」、「ブリッジ」等々であった。どうもすっきりしない。いまいちという役員達の評でなかなかまとまらない。発行期限はせまっている。
 「何かいい名はないかなあ」、役員5人思案するばかり。「万里の波濤をのりこえて」と小生がつぶやいた。「そうだ、波濤はどうだろう」と。 「あゝいいわね」と美人役員たちの賛成があった。 放送大学のシンボルマークのイメージとも合うし、「波濤」が同窓会誌名となった。 さざ波のような小さな同窓会活動を波濤で盛り上げよう。そして、波濤は世界の港、横浜とも縁がある。海は世界につらなり、ひらかれている。  
 「波濤」で社会に、そして世界にひらかれた教育を目指そう。というたいそうな願いもこめられている。
会員投稿コーナー
会員氏名 投 稿 日 投  稿 題 名
石橋 正彦 2018年10月20日 「伊良湖岬行その1&2」  
 石橋 正彦   2018年9月20日 「孀婦岩 
 植地 勢作 2018年6月25日  「ある短歌の話」 
 石橋 正彦  平成29年11月27日  「新宿御苑菊花壇展を鑑賞して」 
 石橋 正彦  平成29年10月25日  「ポリネシアの賢人 篠遠嘉彦先生を偲ぶ」 
 石橋 正彦  平成29年7月13日 「シロカラス」 
 村田 カズ子 平成29年6月29日

「韓国放送大学校釜山地域大学文化交流会を終えて」 

 安達美帆子 平成29年2月8日 「立山連峰・ 剱岳」  
佐 愼二   平成28年10月18日  「ぶらり散歩 ぶらり散歩 東海道・戸塚宿」 
石橋 正彦  平成28年8月2日 わが家の守護神ーアシダカグモ 
佐 愼二  平成28年6月28日 小川糸『ツバキ文具店』 
植地 勢作   平成28年6月21日   「大磯に残る珍しい夏祭り」 
 浅井 公子 平成28年6月17日  「放送大学での思いがけない出会い」 
 藤井 輝 平成28年6月5日 腕白おじさんのエッセイ 107「箱入り娘F」  
 大野貴司 平成28年4月24日   「ぶらり散歩東海道・ 権太坂から戸塚までに参加して」第4弾 
 石橋 正彦  平成28年3月9日  お菊虫と皿屋敷 

安達 美帆子 

平成28年3月3日  美術館の建物・・・東京都美術館 
佐 愼二  平成28年2月28日  「ぶらり散歩 東海道・権太坂から・・・」第3弾 
 石橋 正彦 平成28年2月23日  タゲリ、オシドリ、ヨシガモー自然は素晴らしい! 
 石橋 正彦 平成28年1月17日  「おとしだま」の話 
 石橋 正彦 平成27年12月31日  「日赤救急法基礎講習」を受講して 
 寺村 紀美夫 平成27年12月9日 我が家の菜園便り No.2 冬野菜編  
藤井 輝  平成27年11月18日  腕白おじさんのエッセイ 106「箱入り娘E」 
 櫛田 政五郎 平成27年11月16日  「ぶらり散歩 権太坂」第2弾  
 佐 愼二  平成27年10月25日  「ぶらり散歩 権太坂」導入篇  
植地 勢作  平成27年9月22日  「私の戦争体験記」 
 赤松 孝子 平成27年9月15日  「幻の玉音放送」
植地 勢作  平成27年7月10日  「藻塩焼く」と「玉藻」 
藤井 輝    平成27年7月1日  「ネーミングの怪」@ 
寺村 紀美夫  平成27年6月29日 我が家の菜園便り 夏野菜編 
佐 愼二  平成27年6月19日  ぶらり散歩 権太坂 
 村田 カズ子 平成27年6月16日 

よし笛の演奏に魅せられて 

 山田 和嘉子 平成27年2月22日 回顧録 英語に会えて 
 石橋 正彦 平成27年2月9日  放送大学面接授業「三浦半島のバイオジオツアー」を受講して 
佐 愼二 平成26年12月20日 赤十字救急法講習会の実施 
藤井 輝   平成26年11月25日 腕白おじさんのエッセイ 104「箱入り娘D」 
藤井 輝  平成26年9月24日  

腕白おじさんのエッセイ 103「箱入り娘C」

永井 藤樹  平成26年8月22日  面接授業レポート3「岩手南部巡検で知ったこと」 
藤井 輝   平成26年7月30日  腕白おじさんのエッセイ102 「箱入り娘」B 
永井 藤樹  平成26年7月16日  面接授業レポート2 「岩手南部巡検で知ったこと」 
藤井 輝  平成26年6月28日  腕白おじさんのエッセイ 101 「箱入り娘」A  
 永井 藤樹  平成26年6月29日  面接授業レポート1「岩手南部巡検で知ったこと」 
 永井 藤樹  平成26年2月13日    東慶寺の墓石群      
 石橋 正彦  平成25年12月12日 

「群馬の自然:保護と利用」−面接授業報告

 木村 勝紀 平成25年11月15日 シリーズ・江戸アラカルト(5)  
 木村 勝紀   平成25年10月15日 シリーズ・江戸アラカルト(4) 
 石橋 正彦 平成25年10月14日  季節のことば検定 
 石橋 正彦 平成25年6月20日 

自然と人間の共生−森林文化都市
− 山形学習センター面接授業報告 −
 

 永井 藤樹 平成25年3月7日 ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー二人の写真展 
植地  勢作 平成24年12月24日  日本の醤油発祥の地は? 
西山 哲郎  平成24年11月4日 長野学習センター面接授業報告  
渡邊 久江 平成24年9月9日  夏休み(北海道紀行) 
永井 藤樹  平成24年7月3日 台湾空中大学訪問記 
石橋 正彦 平成24年6月8日  春の東北修学旅行
 石橋 正彦   平成24年5月6日 放 送 番 組 制 作 見 聞 記 
石橋 正彦  平成24年4月24日 春の一日 − 東京漫歩録 
永井 藤樹  平成23年11月7日 浅井三姉妹ゆかりの地から学ぶ 
永井 藤樹  平成23年9月9日 横浜近代水道の始まり 
木村 勝紀  平成23年3月2日 シリーズ・江戸アラカルト(3)
永井 藤樹  平成22年11月22日 姫路城見学記 
木村 勝紀  平成22年11月1日 シリーズ・江戸アラカルト(2)
木村 勝紀  平成22年10月2日  シリーズ・江戸アラカルト(1)
 大島 キヨ子 平成22年9月10日  NEW YORK 5週間 ぶっつけ本番一人旅 
笠井 政記 平成21年12月20日 世界公開大学学長 シンポジュウムinさいたまを拝聴して
永井 藤樹 平成21年12月1日 「fox face」について
金田 保男 平成21年11月24日 学習センターウォーキング
永井 藤樹 平成21年10月21日 横浜大空襲 その3
永井 藤樹 平成21年10月21日 横浜大空襲 その2
永井 藤樹 平成21年10月13日 横浜大空襲 その1
木村 勝紀 平成21年8月20日 同窓会の歴史を語る『波濤』創刊〜37号
石橋 正彦 平成21年6月26日 シリケンイモリ
坂本 春江 平成21年5月30日 地域の小さなボランティア活動
石橋 正彦 平成21年5月29日 落とし文
石橋 正彦 平成21年4月23日 趣味考:カヌー
永井 藤樹 平成20年8月26日 私の農業体験記」
{
     
    探鳥寸描


                          平成21年1月16日
                          会員投稿:石橋 正彦


 近くの座間谷戸山公園の森の木陰から1羽のノスリが飛び立って、数回羽ばたいたあとは羽を動かさずに、ゆっくりと旋回して上昇していく。5分程すると豆粒くらいにまで高くなり、やがて北の方へ消えていった。最高の場面だった。ノスリは冬になるとしばしばみられ、いい顔を見せてくれる。この公園には猛禽はノスリの他にオオタカもいて、幼鳥を2羽連れたメスが樹上を飛んでいるのを見たこともある。オオタカが現れると池のカモ達が騒ぎ出す。ときにカモを襲う場面に出くわすこともあるそうだが、残念ながらまだその場に居合わせたことがない。
 公園を歩いていて3mほど先のクヌギの根方で求愛行動をしているアオゲラに出会ったときも感激であった。ふだん探してもなかなか見つけられないアオゲラを、すぐ目の前に、それも2羽も、となるとベテランでもそう体験できることではない。鳥の方は相手に夢中で、ギャラリーにまで気が回らないせいか、しばらく美しい姿を楽しませてくれた。この森で営巣して、幼鳥の巣立ちが確認できたアオゲラがいた由。多分私達が見たペアだったのだろう。
 いつも観察用望遠鏡に三脚を付けて持ち歩く。望遠鏡を持たずに散歩だけを楽しもうとするときに限って珍しい鳥が出てくるので、空振りを覚悟の上、重いのを我慢して持って行かざるを得ない。日向に出てきたカワセミやルリビタキの瑠璃色の羽の美しさ、ジョウビタキの紋付、シメの首周りの模様、ヤマガラの可憐さなど、双眼鏡では味わえない望遠鏡を通しての小鳥達の魅力を楽しんでいる。
 この谷戸山公園ではしばしば鳥の群に囲まれることがある。シジュウカラとエナガの群、カシラダカの大群、メジロとコゲラが一緒になった十数羽の群。鳥の群に囲まれるとき、まさに自然を堪能できる。
群といえば、相模原の横浜市古山貯水池の群も見事である。冬になるとキンクロハジロ、ヒドリガモ、コガモなど沢山の水鳥が楽しめる。とくにオシドリの群は見事で、以前は200羽以上もいたのだが、最近は10羽ほどになってしまった。どこへ行ってしまったのだろうか。オシドリも綺麗だが、ヨシガモの美しさの方が私は好きである。日に当たって輝く頭部のグリーン、流れるような風切羽。「高貴」という語を思い浮かべながら見とれる。カンムリカイツブリも見事である。細い姿で優雅な冠。潜水するといつまでも姿を現さないような気がする。
以前は水鳥達は20種以上、2千羽以上も来ていたのに温暖化の影響か、最近はかつての一割程度しか来ていないように思われる。この貯水池で鳥達が提供するご馳走によって、全国に美味しいと知られている横浜の水道の味も落ちてきたに違いない。
先日、映画「感染列島」の試写会を見てきたが、鳥インフルエンザに起因するパンデミックという問題も、最近の水鳥の数の激減を見ると、単に映画の中の話では済まされないことと懸念しているのだが・・・。